前回に引き続き、渋沢栄一についてまとめていきます。
生まれ育った環境や欧州渡航の経験、大蔵省への入省などのエピソードをお話ししました。
今回は、国立銀行創設など実業界へ転身していくエピソードをご紹介します。
第一国立銀行の創設への道のり
官界から実業界へ
渋沢栄一は、実業家として広く知られていますね。育てた企業は500以上とも言われています。
なかでも第一国立銀行の創設に関わったことは有名ですね。
そんな渋沢ですが、静岡で事業をしている際に大蔵省に引き抜かれ、官界にいた経歴もありました。
第一国立銀行の設立に関しても、官界にいたときに主導しています。その後、転身と同時に第一国立銀行に移籍しました。
この第一国立銀行の創設こそ、彼の実業界での膨大な功績の原点ともいえるのです。
- 第一国立銀行の創設を機に、官界から実業界へ転身した。
- 第一国立銀行の創設こそ、実業家「渋沢栄一」の原点といえる。
民間に下って実業界に転身するにいたったきっかけは、やはり欧州滞在での体験が大きかったでしょう。
パリ万国博覧会や欧州各国の視察で、近代的な技術や制度を目の当たりにした経験と知識が豊富にありますからね。それをフルに活用し、日本の実業界を引っ張っていくぞ!という決意がひしひしと伝わります。
銀行設立への道のり
第一国立銀行の設立には、資金面から三井組と小野組の協力が必要不可欠でした。
といっても、簡単に設立に向け進んでいったわけではなく、特に頼りにしていた三井組との間で軋轢が生じながら、設立に至ったという経緯があります。
具体的には以下の3つの局面で軋轢がありました。
- 三井組単独の銀行設立への誘導 → 不許可
- 三井組、小野組合同での銀行設立への誘導
- 三井組ハウスの第一国立銀行への譲渡
三井組はもともと幕府の市中御貸付金の取扱いや金札の発行など中心的な役割を果たしていました。倒幕した後も、新政府が大量に持ち込んだ太政官札の流通を請け負って信用を獲得し、密接な関係を築き上げていきました。
政府としては、三井組を中心とした豪商らの資金に頼って、発券機能をもつ銀行の設立を進めることで足並みをそろえていたようです。
1871年には、渋沢の起草に基づき三井組による銀行設立&兌換券の発券が認可を受けましたが、途中で伊藤博文が猛反対して白紙になります。
もともと、井上や渋沢らが推す英国風の私立銀行制度と伊藤の推す米国流の国立銀行制度の2つの意見が激しく対立していたんですね。
英国風の私立銀行(渋沢、井上) ⇔ 米国流の国立銀行制度(伊藤)
そうして半年以上対立は続いたんですが、結局、伊藤案のナショナルバンク制度の採用が決まり、渋沢を中心に年明けから国立銀行条例の起草が始まります(三井組を中心にした銀行設立には変わりありません)。
その後、五代友厚を頼りに巻き返しを図る小野組も遅れて銀行設立を請願し、三井組と小野組合同での設立へと話が進んでいきます。
三井組としては、自分たちが思い描いていたビジョンとは大きく異なっていましたから、かなり渋ったようですが、、、政府側は半ば強引に説得して、三井、小野両組合同での銀行設立を決定したのでした。
ついに第一国立銀行の開業へ
1873年6月11日に第一国立銀行創立総会を開き、資本金250万円弱(三井組と小野組がそれぞれ100万円ずつ拠出。残りは一般)で発足しました。
三井組が銀行として建築していた旧三井組ハウスを本店とし、大阪、神戸、横浜に支店を置きます。
渋沢は同年5月に大蔵省を退官しており、頭取として以後、1879年2月の第153国立銀行に至るまで多くの銀行設立を指導していったのでした。
渋沢栄一が関わった多くのビジネスと役割
いったい、いくつの会社に関わったのか?
正直言って、関与の度合いによって数に差が生じてしまうので、一口にいくつと言うのは難しいですが、渋沢栄一記念財団によると、「栄一は、約600の教育機関 ・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し」たとあるので、とても多くの事業や教育機関に関わったことは確かですね。
島田昌和の分析によれば、会社の設立から発足後にわたって公に何らかの役職について会社の総数は、延べ178社とされています。業種別は以下のとおりです。
①陸運(鉄道) | 22社 |
---|---|
②対外事業 | 19社 |
③銀行 | 16社 |
➃商工業 | 11社 |
➄鉱業 | 8社 |
➅窯業 | 8社 |
➆化学工業 | 7社 |
➇電気 | 7社 |
➈保険 | 6社 |
➉海運 | 6社 |
地域ごとに必要な業種なので、①陸運(鉄道)や③銀行は関わった数が多いですね。2番目に多いのが②対外事業。渋沢は植民地にある会社にも多く関わったことがわかります。
会長などの役員として関与した有名な会社は以下のとおりです↓
第一国立銀行(現みずほ銀行)、東京瓦斯、日本煉瓦製造、京都織物、東京石川島造船所、帝国ホテル、王子製紙、磐城炭鉱、広島水力電気、札幌麦酒、大阪紡績、日本鉄道、東京海上保険、日本郵船 ・・・など
もちろんすべて最初から最後まで渋沢が付きっ切りだったわけではなく、一時的に会長を務めたというケースも含まれます。
渋沢栄一の役割とは
渋沢は必ずしも会社の立ち上げから中心にいたとは限りませんが、創立総会の議長役を引き受け、取締役や監査役の指名を行う事例が多かったようです。
また、創業初期の立ち上げのトラブルや不況時の経営判断なども引き受けていました。
例えば、ある会社で立ち上げ期をなかなか脱せず株価低迷が続く最中、社長の不祥事が重なり、株主への対応が厳しい状況になった際、渋沢が代わって株主との対応にあたり、時間をかけて問題を解決していきました。
株主の不安はすぐに払拭できるわけではないため、株主から厳しい発言を受けることもあったといいます。手に負えないような状況下のなかでも、最終的にはきちんと間を取り持つ、それができる人物であったからこそ、多くの会社から必要とされていたのでしょう。
株式会社制度が始まったばかりで、経営者自身、経験が少なく、渋沢に頼りがちになってしまうのも当然のことかもしれないですね。
- 渋沢栄一は、利害が反する者同士の調整や仲裁、仲介役を通じて直面する問題の解決を図るという役割を果たしていた。
おわりに
いかがでしたか。今回は渋沢栄一に関する記事、第2弾でした。「官尊民卑の打破」という強い思いを持った渋沢の行動力は、ものすごいですね。
前回の記事は、渋沢栄一の生まれてからいかに過ごしていったのか、新政府で官僚として活躍するまでを記しています。↓

今回は、特に官僚から民間へ移り、実業界のリーダーとして、第一国立銀行の設立やその他ビジネスでの関わりについてまとめていきました。
多くの会社の運営に関与していた渋沢ではありますが、周りの多くのサポートがあってこそできたことです。そのことについては、また次回まとめたいと思います。
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最後までご覧いただきありがとうございます。
ではこの辺りで。