人物史

大河ドラマ&新一万円札に抜擢!【渋沢栄一】ってどんな人?

きりん
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どうも歴旅ブロガーのきりん(@kirinnblog20)です。

今回は、2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公であり、2024年に新しい一万円札の顔となる渋沢栄一についてまとめていきたいと思います。

およそ500の企業を育て、600もの社会公共事業に関わり、「日本資本主義の父」と呼ばれた渋沢栄一。

大河ドラマや新一万円札に採用され、私たちにとって、渋沢栄一がより身近な存在になるこの機会に、「日本資本主義の父」と呼ばれるにいたった経歴やどんな人物なのかなどについて、まとめていきたいと思います。

 

小さな農家に生まれ、父の背中を見て育つ

渋沢栄一本人写真渋沢栄一 / 出典:Wikipedia

渋沢栄一は、1840(天保11)年、武蔵国(現埼玉県の深谷市内)の血洗島村に生まれました。

血洗島村は天正期(1573~91)に村に土着した旧武家たちが開墾して始まった村です。江戸期の農産物は穀類・蔬菜・養蚕・藍が代表的なもので、水田は少なく、牛馬の飼育舎も少ない、一農家の耕地が三町歩を超えるのは稀な平均よりやや小さめの村でした。

小さな村と聞くと、貧しい村だったのかなと思ってしまうのですが、肥沃な土地で、深谷宿は中山道の宿場で人と物資がともに行き交う陸上交通の要所であり、さらに、利根川の水運の中継基地もあり、交通の便に恵まれた、発展の条件のそろった地域でした。

渋沢栄一が生まれ育った家は、江戸時代初期の時点では水田を保有しない30戸中21番目の小農家でしたが、父 美雅の代に農家から藍葉を買い入れ「藍玉」という藍染め原料に加工し販売するという新ビジネスを始め、村の中で1,2を争う富農に急成長した家でした。

  • 藍玉の製造販売で成功し、富農となった。
  • 稲という基軸産品の生産の縛りから抜け出した。

このように、10代のころに藍玉の商売を実体験したことで、渋沢栄一は古いしきたりや序列を打ち破るという考えを学んでいったのでした。

 

また、渋沢家は一族こぞって学問や教育に熱心だったので、ふつうの農家ではできない、まるで武家のような教育を受けることができました。

  • 書法
  • 四書五経を用いた読み書き
  • 剣法

もはや農家ではないでしょ?!(笑)

 

江戸で学び、攘夷の道へ

ペリーが来航した1853(嘉永6)年に渋沢栄一は初めて江戸を訪れます。

1861年、21歳で江戸に出て海保漁村の塾生となり、同時に千葉道場で剣法を学びました。すでに従兄弟の尾高長七郎が海保漁村の塾生であったことも少なからず影響しているでしょう。

そして、これを機に、渋沢栄一は攘夷の直接行動に向けて突き進んでいくことになります。

1863年には千葉道場や海保塾の仲間たちと高崎城を乗っ取りや横浜の焼き討ちを計画しました。

しかし同年7月に起きた薩英戦争で、圧倒的な軍事力の差を思い知らされました。

さらに、尾高長七郎から京の情勢や天誅組の変の失敗を知らされ、寸前のところで高崎城乗っ取り計画は中止されたのでした。

  • 東京で儒学や剣法を学んだ。
  • 挙兵を計画するなど、尊王攘夷論者として活動した。

 

一橋慶喜に仕える

徳川慶喜 / Wikipedia

挙兵計画は中止したものの、渋沢栄一は捕縛される恐れがありました。

そこで、一橋家の用人・平岡円四郎を訪ねます。

平岡は旗本の生まれで、藤田東湖や川路聖謨から推薦を受け、一橋慶喜に仕えていました。

そんな境遇もあり、渋沢栄一に手を差し伸べます。

仕官は軽輩からということで非常に悩んだようですが、平岡の誘いを受け入れ、その後すぐに対外折衝を担う御用談所で働く下役に取り立てられます。

その後も順調に出世をしていく中で、才能を発揮していったのは、自分の出自でもある農村に関連した仕事でした。

  • 政治的発言力の強化として軍備を整えるために、慶喜に直接進言して、自領の農村から志願兵を募集
  • 領内で生産できる木綿や硝石など商品作物類の栽培や製造を奨励し、産業の育成を図り、藩札の発行と流通によって現金化し、さらにその運用益を得ることを立案・実行

このように、産業育成と貨幣流通の重要性を踏まえた行動は、農村のことをよく知り、藍玉の商売をする父を見て育った渋沢栄一だからこそできたことでした。

 

パリ万国博覧会

渋沢栄一は、徳川昭武の随行としてパリ万国博覧会に参加しました。

博覧会は電信、電送、灯台、蒸気動力による機械類や最新の大砲など、さまざまなものが展示されました。

渋沢栄一も大いに興味関心をそそられたことでしょう。『航西日記』に詳しく記述が残されています。

博覧会関係の行事が終わると、欧州各国の視察も行っています。

この視察を通して、優れた兵器工場や製鉄所に触れ、鉄を用いた近代的な製造力を身につけることが近代国家として不可欠であると思い知るのでした。

また、移動する際には鉄道を利用したのですが、この体験こそが、後に渋沢栄一が鉄道会社設立に数多く関わった原点となります。

さらに、株式会社の基になった合本組織についてもこのときに学んだとされていますね。

 

彼にとって、欧州滞在がどれほど大きな経験だったのかが下の資料からうかがえます。

「自分は知恵もなければ学問も無い。色々の変化に遭遇して最早政治界に立つべき念慮も無い、さればと云うて家に帰って百姓をするのも残念である、それ以外に何か国の為に尽くすことが出来そうなものではないかという所から……各人その能力知識に依ってその職分を尽くす、この風習を日本に移すことに努力してみたいと私はその時に深く覚悟したのです」(『伝記資料』より)

この経験こそが彼の生き方を決めたと言っても過言ではありませんね。

  • パリ万国博覧会の随行で得た「最新の技術」や「西欧新知識」の学びが、渋沢栄一のその後の行動の軸となった。

 

帰国後、静岡藩→新政府へ

帰国後、渋沢栄一は静岡で商法会所を設立し、欧州で学んだ合本という新知識を試しながら事業を進めていきます。

おもに、貸付などの金融業や物品の売買だったのですが、一年足らずで8万両以上の利益を上げ、総資本利益率も30%近くにのぼったようです。

 

1869年には、新政府より大蔵省租税正へ任じられます。

この当時の大蔵省の要職は以下の通りです。

大蔵卿 伊達宗城
大蔵大輔 大隈重信
大蔵少輔 伊藤博文
大蔵大丞 井上馨

そうそうたるメンバー(汗)

しかし、このとき渋沢栄一は断るつもりだったというのですから驚きですね。

やっぱり大物は違いますねぇ・・・。

 

結局、大隈重信から「八百万の神達の一柱として」一緒に働いてほしいと猛烈なアプローチがあり、入省することになります。

入省してからは、度量衡や租税制度の改正や鉄道敷設、官庁建築などさまざまな業務に携わりました。

  • 大蔵省租税正に抜擢され、数年であったが、官僚としてさまざまな国家事業を手がけていった。

 

おわりに

今回は、大河ドラマや新一万円札に選ばれた渋沢栄一についてまとめていきました。

農民、商人、武士、そして官僚とさまざまな立場で幕末→明治維新と激動の時代を生きていたことがわかりましたね。

新たな商品作物から新ビジネスを切り開き、どんどんのし上がって地位を築き上げた渋沢栄一。今のビジネスマンにとっても、渋沢栄一から学ぶべきものはたくさんありますね。『論語と算盤』は、最近特に話題になっていますしね。

まだまだ内容は盛りだくさんなので、数回にわたって記事にしていこうと思います。

また、続きが書けたらアップします!

 

今回の記事では、つぎの書籍を主として参考にしました↓↓ 興味のある方はぜひ読んでみてください。

島田昌和『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』2011年、岩波新書

 

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最後までご覧いただきありがとうございます。

それでは。

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